かみくず日記

2005年6月20日 新聞を疑え?

会社の昼休み、Yahoo!のニュースでこの記事を見かけて、なんでまた今ごろ?と思った。

吉田満著書 乗組員救助の記述 戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き – 救助艇指揮官「事実無根」
戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の中で、救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)ったと書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、「事実無根だ」と証言した。手首斬りの記述は朝日新聞一面コラム「天声人語」でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として“独り歩き”しているが、指揮官は「海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい」と訴えている。(中略)
この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、救助艇が満杯となり、なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため、指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述していた。
これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めたMさん(80)(原文は本名)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。  その理由として(1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない(2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない(3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった-と指摘した。
松井さんは昭和四十二年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、「あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの」と削除を要請した。吉田氏からは「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった。
Mさんはこれまで、「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」とし、旧軍関係者以外に当時の様子を語ったり、吉田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった。
しかし、朝日新聞が四月七日付の天声人語で、同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたため、「戦後六十年を機に事実関係をはっきりさせたい」として産経新聞の取材を受けた。  戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない。沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている。
Mさんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。(産経新聞 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050620-00000000-san-soci ※リンク切れ)

「戦艦大和ノ最期」といえばもう古典だし、軍国主義的という批判さえ浴びたことがあるぐらいで、フジ・サンケイが噛み付くような作品ではあるまいと。記事の内容も、その通りだとするなら、そもそも初霜は大和の救出をしていないのだから、現場を見てはいないわけで、(2)、(3)の指摘も、実体験者の証言を覆すほどの内容には思えない。また、昔写真で見た大和沈没時のすさまじさを考えると、(3)の漂流者が我先に助けを求めるのも当然のことのように思える。だいたい、沈没の翌年に書かれ、出典も明確で、どこの戦場でもあるエピソードがなぜ「残虐さ独り歩き」なのか。後半、とってつけたように沖縄の話になるのかも良く分らない。 集団自決という事実と「生きて虜囚の辱めを受けず」という当時の戦陣訓を考えれば、十分に信憑性のある話だし、「~の説が有力になっている」って書いてあるけれど、異なる意見の対立がある、というのが正しいのでは。大体、古代史じゃないのだから。沖縄の戦争体験者の発言など眼中にないのか。

あと細かい話だけれど「旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ」は文意から明らかに「離島で行われた集団自決が旧日本軍の命令によるものと長く信じられ」だと思うのだが。この悪文は意図的なものか?

たぶんMさんは、救助艇は初霜のものでない、しかしそれを指摘すれば他に責任を負わすことになる、ということで長年黙っておられたのではないだろうか。けれど私は、たとえ書かれたようなことがあったとしても、それは極限状態のなかでの出来事であって、責められるようなことではないと思う

。。。証言は興味深いけれど、後半はなんだか意味不明だなぁ、産経新聞ってそんなもんなのかなぁと思いつつ、寝る前、もう一度読もうと検索かけたら、 別の記事で謎はあっさり解けました。

「集団自決」書き換え懸念 – 揺らぐ教科書の沖縄戦記述/8団体がシンポ
県内八つの平和団体が主催する緊急集会「『軍隊の支配する世界』~沖縄戦の『真実』にせまる~」が十九日、約百二十人を集めて那覇市で開かれた。旧日本軍による「集団自決強要」を否定し、教科書からの削除を主張する自由主義史観研究会の活動を憂慮して企画された。軍の統制下で発生した「集団自決」の背景に焦点をあてながら、沖縄戦の教訓を伝えていく教育の重要性などについて、熱心な発言が相次いだ。
安仁屋政昭・沖国大名誉教授は講演で、「部隊長の直接命令がないから、軍命による『集団自決』はない」とする同会の主張に対し、沖縄戦の戦場が、民政の機能しない戒厳令に似た「合囲地境」だったと指摘した。
「役場の幹部が『集団自決』に言及したとしても、住民が『軍命』と受け取るのが事実関係から適当。個々の命令の有無でなく、大局的にみる必要がある」として、軍政下の軍と住民の位置づけを強調した。
琉球大教育学部の山口剛史講師は「沖縄戦で何を学ぶか」と題した報告で、「集団自決強要は虚構」と結論づける同会の模擬授業を例に、教育現場から反論するための視点を示した。(沖縄タイムズ http://www.okinawatimes.co.jp/day/200506201300_01.html ※リンク切れ)

ご存知のように、産経新聞は自由主義史観研究会の活動を支援しており、最初の記事は、日付から言って明らかに上の集会を意識したものです。

「新聞を疑え」っていう新聞が一番信用できないってことか。

2005年6月1日 明けまして

明けましておめでとうございます。ってもう半年過ぎてますね。日頃から忙しい忙しいと言っている私ですが、この半年はどうにもならないくらい忙しく、またいろいろ思うところもあって、日記の更新を止めていました。すんません。

新年1日目、新しい仕事も始まり「さあ、やるぞ!」と意気込んで出社したところ、いきなりの異動の話。私ではなく、うちに課の二人いる課長のうちの一人が、遥か遠くの工場へ。遠くといっても、当人にとっては、いまよりずっと家の近くなのですが。で、で、そのひとが抱えていたいくつもの案件が、ドッと私のところへ。本当なら、お客さん先に常駐している私が抱えるいわれはないんですが、この1年で社員が3人が辞め、1人がうつ病?で長期療養、1人は持病で自宅作業、残りは全員客先に常駐で、どうにも逃げられず、絡め取られてしまいました。それでも、実のある話だったらまだ良かったんですが、全部まだ提案の段階でお金がもらえる当てもなく、でも営業からは、相手との約束もあると言われ。。。そんな状況で本筋の仕事がうまくいくはずもなく、更にここでは書けないアクシデントも重なって、この半年は終電と徹夜と休日出勤の毎日でした。

そう言いつつも、平日帰れない分、休日はなるべく出かけるようにしたし、GWも何日かは休むようにしたので、充実したところもありました。この半年の出来事といえば。。。

  •  横須賀・三崎港・城ヶ島
    三崎港はマグロの街。横浜からちょっとでこんな面白いところがあったとは。ただ、マグロのセリが観られなかったのが残念。京急沿線の方は早起きしていってみるべし。(セリの日はネットで要確認)
  • クルマで富士山麓を一周
    忍野八海。蕎麦を食べる
  • クルマで山梨までいちご狩り
    ちょうど桃の花の季節で、丘の上から眺めた甲府盆地は一面のピンク。
  • その帰り、家まであと少しのところで、オカマほられる。
    幸いなことに双方ケガなし。
  • GWに九州旅行
    鹿児島から肥薩線経由で熊本、クルマで天草、島原、長崎と回って福岡へ。鹿児島は記録的な大雨で桜島も開聞岳も見えず。肥薩線は観光路線で、時間に余裕のある人には絶対おすすめ。島原では天草四郎と原城に感無量。長崎は晴れだった。
  • 奥田民生のライブ。
    5月の平日で、そのとき今年初めて、0時前に家に帰る。
  • 大阪の義母の調子が悪くなり、大阪へ行く。
    調べたところ、医者に出された薬に疑いが。薬の効用と副作用をネットで調べ、徹夜で仕事したあと、新幹線で大阪へ行き、翌日病院に同行し、薬の量と処方を変えてもらう。その夜は妻の元の職場の同僚たちと飲み、夜行バスで横浜に帰り、翌日そのまま会社へ。これはかなりしんどかった。。。
    でも、そうした甲斐あって、義母はなんとか持ち直しました。担当のお医者さん、最初「調子が悪いんです」と言ったら、「じゃあおクスリ増やしましょう」。もしあの時付き添ってなかったらと考えるとゾッとする。
  • 妹夫婦、インドから帰還。

読んだ本(もっと読んだはずなのに、思い出せない。。。)

  • 「半島を出よ」(村上龍)

観た映画・ビデオ(当たりばかりでした)

  • ハウルの動く城
    最後が宮崎さんらしくないような気がしたが、それでも十分面白かった。
  • ドックヴィル
    大好きな「ダンサーインザダーク」のラース・フォン・トリアー監督の作品ということで、よく知らずに借りたのだが、これが大当たり。舞台仕立ての構成で、最初は戸惑うが、最後は絶句。人間の本質について深く考えたい人は絶対観るべき。ただし、恐怖や悪意、暴力について考えることが苦痛でない人に限る。
  • 軌跡の海
    こちらもラース・フォン・トリアー監督の作品。
  • ブラザーフッド
  • ロリータ
    キューブリックじゃないほう。
  • カンフーハッスル
  • 下妻物語

2004年12月31日 来年もどうぞよろしく

いま大阪の嫁さんの実家にいます。元旦の夜には独り横浜に帰る予定です。紅白ではGacktが歌ってます。カッコいいですな。ずっとイロモノのだと思ってたんですが、今年の夏、たまたま生でライブを見る機会があり、そしたら見事にプロ根性バリバリで、それ以来ちょっと見直したのでした。

大阪には昨日の夜に来ました。今日はすこし遅く起き、大阪では珍しい雪を見ながら朝食を食べ、雪の上がった午後に買出しに。大阪の町は活気があって楽しい。横浜や東京と何が違うかというと、店に入っても、店の中に「会話」があるということ。そこには、お金を払う/受け取る関係での「いらっしゃいませ」ではない、もっと違った軸の声がある。そばや祝箸を買い、ついでに散髪屋で髪を切ってさっぱり。嫁さんの馴染みの本屋では、嫁さんが結婚したことを伝えると、ものすごく喜んでくれて、売り物のカレンダーをプレゼントされる。私は、そんな嫁さんのふるさとが大好きだ。年末は仕事で(というか仕事の環境で)いろいろ悩まされることが多かったけれど、「仕事」の本当の姿というのは、こういうものなんじゃないか、などと思う。

ということで、今年お世話になったみなさん、どうもありがとうございました。人によっては、お世話になったというより迷惑をかけたというほうが正しいのかも知れません。でも、最近思うのですよ。生きていくっていうのは、他人の心の中に石を投げることではないのかと。投げた石の描く波紋がどんな形であろうとも、それは何か意味を持っているのではないか、というか、そこにある意味を信じて、目をつぶって石を投げる。まあ、投げた石は取り返せない、ということの言い訳もあるのですが。

と、なんかまとまりのないことを書いてしまいましたが、そういうことで、来年もどうぞよろしく。

2004年11月19日 mixi

今週は仕事がないはずなのに、雑用が多くて忙しかった。月、火は横浜で終電乗り過ごして深夜バス。木、金も終電。そういえば、先週の金曜日も人身事故で京浜東北線が止まり、横浜で終電がなくなったのだった。定期が切れたのに、買い換える時間がとれない。

そんなわけで日記の更新も滞っている私ですが、最近mixiに入りました。所沢の美容師かみやさん、ことながいさんからご招待で。はじめ、招待がないと入れないというところに閉鎖的な印象を持っていたのですが、使っているうちに、それが本質的な話ではないことに気づいてきます。このシステムの良さは、人と人とのつながりというリアルな世界の魅力と、距離や時間を超えられるネットの便利さをうまく結びつけている点だと思います。説明するとすごく単純ですが、こう単純に説明できるのは、このシステムがインフラに徹していることの証拠でもあります。ここでは、参加者はみんな「顔がある」存在で、ネットの世界にありがちな「一部の奉仕者と大多数の観客」という図式や「言いっぱなし、書きっぱなし」といった行為は成立しにくくなっています。かつてのパソコン通信の世界をすこし連想します。

2004年10月31日 秋の花粉症?

先週土日に友人たちと奥飛騨へ旅行に行って以来、体調が悪い。熱はないのだが、鼻水がズルズル、頭がズキズキ。くしゃみも止まらず。嫁さん曰く、秋の花粉症では?と。確かに、むこうはススキと紅葉が見事で、そういうアレルギーもあるかもしれない。

イラクの香田さんの事件は最悪の結果に。いつかはあることだとは思っていたけれど、実際に起きると強いショックを受ける。なんともやりきれない。せめて、この「やりきれなさ」が、今の戦争につながる歴史の流れの中で数限りなく起きていることのひとつととして捉えることにつながってくれれば、と思う。最初の遺体が別人だったのなら、それはいったいどこの誰なのか。誰も知らないところで、テレビに映らず死んでいった人々がたくさん居るということではないか。

2004年10月20日 プデチゲ

自宅で友達と鍋。最近仕事で韓国に行った友人の指導のもと、部隊チゲ(プデチゲ)なる新種のキムチ鍋を食べる。名前から判る通り、韓国の軍隊でありあわせの食材で作ったのが始まりだそうで、鶏ガラスープの味付けと、ハム、餅、インスタントラーメンを入れるのが特徴。餅がキムチの辛さをほどよく中和して、なかなか美味でした。これから日本で流行るかも。オリジナルにはないようですが、とき卵を加えると、更に辛さが中和されて良いです。

2004年10月17日 再び「赤鬼」

朝から渋谷へ。先週の芝居「赤鬼」に感激したので、今度は嫁さんと二人、もう一度観ようと。先週観たとき、補助席が結構空いていたので、これは当日券も手に入りそうかなと。実は昨日の夜も一度来たのだが、出足が遅れて、劇場に着いたときは既に長蛇の列で、泣く泣く諦めたのだった。

今日は昨日よりかなり早めに着いたのだが、列は既に昨日以上で焦る。係りの人からは「ここだとキャンセル待ちも難しいかも」といわれたが、とりあえず並ぶことに。しかし当日券が予想以上に多く、列は順調に縮まり、これはいけるか?と思ったら、案の定、私のところで「すみません、ここで終わりです」。だがしかし、キャンセル待ちの1番2番で、開演五分前に滑り込みでチケットを入手。

芝居の内容はというと、平日夜でしかも台風が来た前回に比べると、昼間というのは客席の緊迫感にややかけたものの、それでも芝居自体が相当な力を持っているので、やはり感動した。

天候が荒れると役者も観客もテンションが上がり、良い芝居になることが多いように思う。前回はまさにそれで、役者の「間」と観客の呼吸がぴったり合っていたし、緊迫感のある場面では、観客の気持ちがぐっと役者に集まっているのが強く感じられた。金曜の夜で観客の年齢層が高かったせいもあるのかもしれない。数回しか観ない素人が芝居の出来を判断をするのは難しいのだけれど、前回は最後に男性もかなりの数の人が鼻をすすり、スタンディングオベーションも出たぐらいだから、たぶんかなり良い出来だったのではないかと思う。(でもスタンディングオベーションなんて最近は普通なのかな?)

芝居が終わった後、劇場を出て、近くの円山町界隈を歩く。私の持っていた佐野眞一「東電OL殺人事件」を嫁さんが読んで興味を持ち、事件現場周辺の雰囲気を知りたいというので。私自身も読んだ後一度歩いたことがある場所なのだが、ラブホテルの立ち並ぶこの一角は、道玄坂の丘によって渋谷の喧騒から隔てられており、あの事件のことを抜きにしても、独特の重い雰囲気をもった場所である。

被害者の女性はどんな気持ちでここに居たんだろうか。嫁さんと歩きながら、そんな話をする。嫁さんは、会社でそれなりの地位を持っていた彼女がどうしてそんな生活をしていたのか、よく解らないと言う。私は、そういった立場には何も希望を見つけられなかったのではないかと思う。その辺の感じ方の違いは、私と嫁さんの12年の歳の差に起因するものかもしれない。若いとき、未来はそこに在るだけで自分を満たしてくれたが、歳を重ねると今度は、未来の存在が逆に心を空っぽにしていく。それを埋め合わせるために、人は何かを求める。そう考えたとき、今日の芝居の持っていた「絶望」という言葉の意味、悲しい美しさが、よりはっきり感じられたような気がした。

2004年10月11日 叔父さん

嫁さんの実家で叔父(義母の弟)に会う。結婚式は入院して欠席だったので初対面。嫁さん曰く「何やってるかよーわからん人」というので多少緊張していたのだが、会ってみると、いかにも大阪のおっちゃんという感じの、気さくで楽しい人だった。

昼過ぎに皆で吹田へ出て中華料理。そのあと、深刻な話。詳細は書きませんが、とにかく、嫁さんと協力して、できることをやっていくしかありません。

嫁さんと、夕方の新幹線で横浜へ帰る。

2004年10月10日 御堂筋パレード

一日遅れで大阪へ。昨日の騒動でちょっと疲れて寝過ごし、新大阪に着いたのは夕方。早速嫁さんの実家に行こうとするも、嫁さんの携帯に電話したら、いま御堂筋パレードを観ているとのこと。とりあえず御堂筋線で心斎橋に行く。

地下鉄を降りて地上にでると、夕暮ぐれの中、パレードの真っ最中。戦災を受けた街が大抵そうであるように、大阪のメインストリート・御堂筋は道幅がとても広い。通りの中央をフロートやマーチングバンドが流れていき、それを見る人垣の後ろを、ゆったりと人が、自転車が流れていく。近所の小学生が走っていく。私はこういう、日々の生活とハレの楽しみが隣り合わせにある大阪の街が、とても好きだ。

人ごみのなかで嫁さんを見つける。独身時代の、待ち合わせのときの気分を思い出す。

出掛けに義母とケンカしたらしい。ちょっとした気持ちの行き違いがあったらしい。夕飯は外で食べてくるように言われたらしいが、いろいろ話し合って、実家に帰ることする。実家では、初めは多少ぎこちなかったものの、最終的には誤解も解けて、いつもと同じ楽しい雰囲気に。母娘が台所に立ち、あーだこーだと言い合いながら夕飯を作っている光景が、とてもほほえましかった。

2004年10月8日 台風

今日は嫁さんのあとを追って大阪へ行かねばならない。って、別に逃げられたわけではなく。義母の具合が悪いということで、嫁さんが一足先に実家に帰っており、この連休に合流する予定。むこうではおじさんに様子を聞いたり、いろいろやることが。

本当はクルマで行くつもりだったが、台風がやばそうなので、新幹線で行くことに。昼のニュースでは平常どおり動いていたので、安心していたのだが。。。

横浜まで出たところで、嫁さんから電話。どうも止まっているらしいとのこと。でも状況がよくわからないので、とりあえず地下鉄で新横浜へ。やはりというか、下りは13時台からストップ。時刻表示も「遅れています」のみ。周りをみると、結婚式に向かうのか、礼服姿の人たちが右往左往。横では若い女性が携帯電話で「今日の二次会の幹事なんですけど、行けなくなっちゃいました。。。」。外は土砂降り。近くのビックカメラに入ってニュースを確認。店では店頭のディスプレイを大慌てで撤収中。これはダメだと思い、今日は行けない旨電話して、とりあえずで家に戻ることに。横浜線に乗るも、京浜東北線が不通とのアナウンス。慌てて菊名駅で降り、大混雑の改札を抜け、東横線で横浜駅へ。しかし、横浜駅は東横線以外すべてストップで、立ち往生。運転再開まで飯でも食って待つか、と地下街へ行くも、今日は全店早仕舞いで、どこもやっておらず。

しょうがないので、西口でラーメンでも食うか、と外へ出たところ、みんな携帯で写真を撮っている。なんで?と思い覗くと、なんと西口が水没してえらいことになってました。。。

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