かみくず日記

2009年6月6日 模様替え

6月に入って新人の配属があり、先週は課の新人歓迎会があった。うちの課の配属は女子1名。IT産業とは畑違いの大学の出身だけど、今のメンバーにはない真面目なキャラクターで、将来が楽しみだ。文科系で同じく大いに畑違いな自分でもここまでこれたのだから、大丈夫だろう。

週末、お約束でmixiの名前検索したら、真面目が仇となったか(?)一発でヒット。足跡残したので、そのうちここにもやってくるだろう。ということで、やりかけになっていた日記の模様替えをむりやり仕上げることにした。日記なんて無料のブログを借りればいいだろう、と思うかもしれないけれど、今のブログ文化は、ネットの新しい可能性をスポイルしているような気がして、どうも乗る気がしない。とは言うものの、自分でHTMLタグをひとつひとつ書くのも最近はしんどくなってきたので、自分でPerlを組んで、なんとか更新が楽にできるようにしてみた。デザインがイマイチだし、過去の日記とのリンクも不十分だけど、これから少しずつ直していく予定。こうして何でも手が入れられる面白さは、手作りでならではだ。

新人君は、ここ読んだら職場でこっそり教えてください。

2009年5月17日 AKAAKA on the move

d20090517-01先月浅田政志写真展で訪ねた赤々舎で、彼を含めた写真作家12人によるスライドショーのイベントを観る。

告知には「定員100名」と書いてあり、「あそこにそんなに入るのか?」と思ったが、会場の半分にゴザが敷かれ、そこにべたっと座り込んで見るスタイル。入り口にもモニタが置かれていて、結局150人も入ったのだそうだ。

進め方は、2名ずつが作品を紹介したあとお互いの作品について語り合うという形式。トークはほとんどぶっつけ本場だったようで、作家の素の表情がみえて興味深かった。若い作家が多く、自分のスタイルを現在進行形で探している様子が強く感じられた。

写真展にはなんども足を運んだことがあるけれど、作家がスライドを上演するスタイルを見るのは初めて。写真展を見るのはある意味読書に近い個人的な営みだが、多くの観客と作家が一緒になってひとつひとつの写真を見ていく行為は、演劇に近い、でもそういう分類ではくくれない面白さがあった。

トークの司会に立った赤々舎の姫野さん。会社を興したのだからきっと相当な女傑だろう、そう勝手に想像していたら、話し方がとても穏やかなでびっくり。うちの嫁さん曰く「あんな人がおかあさんだったら素敵だ」。もっとも、編集の現場ではきっと厳しいんだろうけれど。

このイベントの告知をネットでみたとき、きっと写真学校の学生や同業者が集まって、写真やアートとは縁遠い仕事の自分が行っても場違いかもしれないと思った。予約メールにそんな意味のことを短く書いて送ったら、姫野さんから、受理の連絡とともに、短く、でもとても心の入ったメッセージを頂いた。そこには、写真を世に出す仕事に対する、ひときわ高い志が感じられた。年齢は私とほとんど変わらない。私はまったく違う仕事をしているけれど、自分も仕事に対してそうありたい、そんなことを感じた。

全部で4時間近く、お尻は多少痛かったが、それに見合ったイベントでした。

 

2009年5月9日 青山ロックン・ロール・ショー

d20090509-01 どんな服を着て行こうか。昔テレビでみた、誰だったかスターのときは、通りを埋めた群集は黒一色だった。かしこまって、でも喪服はちょっと違う気がして、会社用のスーツに黒いネクタイをすることにした。嫁さんはグレーのリボンの柄のTシャツを選んだ。さてどうか。12時過ぎ、青山一丁目から要所要所のプラカードを頼りに、青山墓地の中に伸びた列の最後尾につく。なんのことはない、みんな思い思いの格好だった。もし、この人並みを写真に切り取って何も知らない人に見せたら、どこか海に近い地方の駅で列車を待つ、そんな風景と錯覚するのではないか。私より上の世代、彼と同年代の顔が並ぶ。彼ら彼女らは、その人生経験の長さから、当然こういうときに「何が世間一般的なのか」を知っているし、若い世代と違って、その備えもあるだろう。でもそこには、喪服もTシャツも、ひとりひとりの姿としてそこにで並んでいる。そのことに思い至り、なんだか嬉しくなった。

長い時間かかってたどり着いた会場は、悲しいのに頬が緩み、でも楽しいのにホロリとし、どういう顔していいのか困ってしまう。献花台までさらに長い時間がかかったはずなのに、終わってみればあっという間だった。

出口のところには、去りがたい人たちが地べたにべたっと腰を下ろしていた。あれだけの人並みが献花をして、同じ数だけの人が出てきているはずなのに、そこは今までの混雑が嘘のようにぽっかりしていて、それがとても心に残った。

d20090509-02会場を後にして、まだ列に並んでいる妹夫婦に会う。人の列は青山墓地の真ん中を東から西へ横断し、大きくはみ出したあと逆方向に戻り、東の縁を南へ下り、さらに道路を渡って北上し、小さな公園でとぐろを巻き、そこからさらに乃木坂の駅まで続いていた。

2009年4月26日 浅田家

江東区清澄白河の赤々舎という出版社のギャラリーで浅田政志の写真展をみる。最近テレビでも紹介されていて、大きな賞を取ったから、知っている方も多いのではないでしょうか。私が「浅田家」を知ったのは、かなり前の週刊誌のグラビアでした。それ以来、頭の片隅に残っていたところ、先日渋谷に出かけた折、パルコで偶然写真展に出くわして、あり、そっちを見てきました。で、その後ウェブでいろいろ調べていくうち、彼の写真集を出版した「赤々舎」という出版社がなんかとてもおもしろそうで、ちょうど、事務所の1階のギャラリーで個展があるというので、行ってみることにしました。

清澄白河は、いぜん東京都現代美術館に行ったことがあるぐらいで、あんまり土地勘がない。ウェブから書き写した地図を頼りに路地を幾つも曲がって、たどり着いたのは、白壁の、間口の広い、納屋のような建物でした。

個展は、パルコよりも家族が一人増えたのと、浅田家以外の家族の写真が中心でした。明らかに「作られた」場面なのに、そこに素の家族が見えてくる。兄夫婦の結婚式の写真の前で「これは本当の結婚式か?」と思い、その直後「本当って何だ?」自問してしまった。私たちが写真を見るときに常に直面する、虚と実の問題を、軽く乗り越えてしまっている。

2008年10月11日 暗闇

今週は平日に休みを取り、お台場でダイアログ・イン・ザ・ダークというワークショップに参加してきました。

テレビやラジオで紹介されたこともあるそうなのですが、私がこのイベントを知ったのは、まったくの偶然からでした。それは去年の冬のある夜のこと。都内を嫁さんとクルマでドライブしていた私は、赤坂付近で道に迷ってしまいました。地図を見ようと車を止めたところ、そこは廃校になった小学校の前。ふと見ると、フェンスに質素なイルミネーションが灯り、何かイベントの気配が。不思議に重い、クルマを降りて中に入ると、校舎の入り口に受付があったので尋ねてみました。受付の男性が親切に教えてくれたのは、目の見えない人と暗闇のなかを歩くイベントで、残念ながら今回は予約で満杯、でもたぶんまた来年ありますとのこと。そのときは良くわからないまま、パンフレットだけ貰って帰ってきたのでした。

予習期間が長かったので事前に十分判っていたにもかかわらず、実際に体験してみると驚きの連続でした。これから体験する人のために詳細は書きませんが、目の見えないことの不自由さを体験する、といった「福祉教育」的な面だけでこの体験を説明することはできません。自分の性格や他人との距離のとり方、仲間との連帯感など、何層もの問題を暗闇の中で自問しました。また、暗闇を出るときには暖かい充実感があり、終わったあともいろんなことを考えさせられます。

今になってとても驚いていることがあります。それは、この日記を書くにあたって、頭のなかでは体験を映像として思い出しているということ。体験中、何ひとつ見えていなかったのに。これはいったいどういうことなんだろう。

2008年9月21日 追悼・市川準

大学2年の夏、新宿で出会った鹿児島の女の子と付き合いを始め、その年の秋、渋谷であっけなく振られた。 渋谷の街をどん底の気持ちでを当てもなく歩き、気がついたら映画館の前にいた。 掛かっていたのは「BU・SU」という映画。とてもこのまま家に帰る気にはなれず、主演が当時好きだった冨田(富田)靖子だったので、その場の思いつきで当日券を買って中に入った。

客席はがらがらで、自分の後ろにアベックが1組、全員でも10人ぐらい。バブルの末期、余った金が流れ込んで、映画が乱造された時代だったのだと思う。暗闇に身を埋めてスクリーンを見ながら、いつのまにか映画に自分を重ね合わせていた。そして、見終わるころには、気持ちは主人公と同じ心のカーブを描いていた。

帰りの電車でパンフレットを開くと、監督のメッセージが書かれていた。「青春が美しい季節だ、なんて誰にも言わせない」。ポール・ニザンなんて名前は当時知らなかったが、その言葉がとても心に響いた。

それ以来、市川監督は自分にとって特別な存在となった。

彼の映画はやさしさに満ちている、とよく言われる。それは確かだけれど、彼の視線はいつも対象から一線引いたところにあって、とてもドライだ。にも拘らずやさしさを感じるのは、そこに孤独や人間の暗い部分への深い理解があるからだと思う。もっともっと映画を撮ってほしかった。

2008年8月17日 夏休み。。。

昼過ぎにのそのそと起き出し、切れていた定期の更新を済ませ、夜は嫁さんと実家に顔を出す。長いようで短かった夏休みも、これにて終了。明日から本当に仕事ができるだろうか?

今年の夏は、まず7月の終わりに、念願だったフジロックへ行きました。去年病気で泣く泣くチケットをフイにしたので二年越しの念願だったわけですが、予想以上に素晴らしかった。天気も晴天だったり豪雨だったりバラエティに富んでいて、楽しみも苦労も満喫できました。あまりに良かったので、そこで既に山を越えてしまった感じでしたが、それでも、勢いでサマソニに行ったり、花火を見たり、大阪の義母の見舞いに行き、そこで子供時代によく通ったプールで泳いだりと、盛りだくさんの夏でした。大阪は、いろんな困難も突きつけられたわけですが、そうした苦渋もまた人生の彩りだ、と腹をくくることにします

2008年1月26日 大連から・その2

滞在先のホテルから職場まで、いつもはタクシーを使っているのですが、今日は仕事が午後からだったので、思い切って電車(路面電車)で行ってみることにしました。が、とにかく遅い。最近の経済発展で道は大渋滞。その間をのんびりのんびり走る電車。観光だったらよかったんだけど、途中で時間が危なくなったので、乗り継ぎ駅で降りてタクシーを捕まえることに。何台か捕まえ損ねていると、タクシーが一台、近づいてきて、ドアを開けてドライバーのおっさんが何かがーがー怒鳴ってくる。どうも「助手席い乗れ」といっているようなのだが、後ろの席には男が独り誰か座っている。どうしようかと思ったが、乗ってしまうことに。

社内でもおっさんはわーわーしゃべっているのだが、何を居ているのか全然判らない。で、後ろの男は途中で降りてしまった。どうも、近距離だったので、相乗りでもかまわず、途中で私を拾ったようだ。

「おまえは日本人か?」と中国語で言うので、そうだ、と答えると、なぜかテレサ・テンのCDをかけてくれた。

午後は半日仕事して、その後みんなで食事に行く。総勢13名で、中華の回転テーブルを囲む。もう中華料理を目新しくは感じなくなってきたが、蛾の幼虫にはびっくり。味は。。。不味くはないが、そう美味いもんでもなく。ちょっと苦味があって、酒のつまみにちょうど良い感じ。

言葉が全然理解できないのに、本当に本当に楽しい飲み会だった。このままずっと飲み続けられたらいいのにと思うぐらい。正直に言うと、前回の渡航のあと、日本側からかなり無理な注文が大量に送られて、そのために中国側は残業残業の毎日ですっかりくたびれていて、今回はなんとなく壁のようなものを感じていた。それがたいぶ崩れて、とても嬉しい気持ちになった。

2008年1月25日 大連から

どういうわけだか、いま仕事で中国・大連にいます。実は去年の12月に続いて2回目。2週間の滞在です。

生まれてウン十年、パスポートも持たず、国内ですら宿泊出張はなく(徹夜出張はいくらでもあるが)、「中国出張命じられたらときは会社を辞めるときだ」ぐらいに思っていました(以前中国に長期出張した先輩が二人も身体を壊して職場を去っていたので)。そんな私に、話が来たのが去年の8月。当初は2、3泊という話がだんだん膨らみ、結局2週間に。正式に決まったのが出発の半月前で、中国語の知識など皆無。しかも、一緒に来た課長が4日目には他所へ移動してしまい、残りの日々を独りで乗り切ることに。

でも、来てみなくては判らないことも多かった。あの二週間の経験で、この国、この街がとても好きになりました。仕事の内容はソフトウェア開発の技術指導だったのですが、「指導」といっても現場監督的なものではなく、現地の技術者と机を並べて一緒に仕事を進めていくスタイル。こちらの技術者はみんな本当に若く、自分がこの仕事についたときのことを思い出しました。スケジュールもきつく困難の多い仕事なのですが、それでも、「仕事が楽しい」と思ったのは何年か振りのことです。

今回はそのリターンマッチ。正直、また状況が変って厳しい現実に直面してるんですが、なんとか乗り切りたいです。

2007年9月16日 RSR

ライジングサンから1ヶ月。たったそれだけしか経っていないのに、何だかものすごく遠い昔のことのようです。行きの飛行機が直前になって故障して2時間遅れたり、お土産に頼まれた「白い恋人」が当日になって発売中止になったり、会場のトイレが大変なことになったりと、相変わらず災難は多かったものの、どれも不思議と致命的なことにはならず、なんとか無事に帰ってくることができました。

エゾは本当に、天国のようなところでした。

次々と立ち上がるテント村。ホルモンの飛ばしぶり。つじあやのの歌声と風になびく白い布。穏やかな波のようなハナレグミのリズム。ビークルの雄叫び。夕暮れの井上陽水。遠くをみつめる祭太郎。詩人チャボのカッコよさ。竹中直人の照れっぷ。KEMURIの後姿。深夜、いつまでも鳴り止まないギターの響き。早朝の足湯。干草に転がる死体?の山。必死の冠バッチ交換。突然の雨。無くした帽子。雲の切れ目からわずかに見えた夕日。夕暮れのビールと涙そうそう。ユアソンのドームを囲んで踊り狂う群集。黙々と絵を描く女性。黙々とファミコンをする男性。黙々とコーヒー豆を鋳る男。ごみ箱の奥の笑顔。小山田の疾走感。卓球の恍惚感。誰も居ないがらんとした物販。夜が終わる瞬間の闇の色。Coccoの熱唱。曽我部の太陽。

そして、畳まれるテントと、ただの野原に戻っていく風景。本当に楽しい時間は、そのときは夢中過ぎて、その重さに気が付かない。何気なく見た風景、聴いた音が、今になって振り返ると、どれもこれも忘れられないものになっている。

本当は来年行く人のためにレポートを書きたいのだけれど、仕事でえらい荷物が降ってきてしまい、なかなかまとまった時間が取れません。実家用のお土産も、未だに冷蔵庫に眠ったまま。この連休も会社に行かねばなりません。が、身体がだるくて今日はダウン。明日は這ってでも行かなくては。

話は替わって。昨日ラジオを点けたら、フルオーケストラのめちゃかっこいい曲が流れてきて、何の曲かと思ったら、なんと「アンパンマンのマーチ」。SUEMITSU & THE SUEMITHが童謡のコンピレーションアルバム用にカバーした曲だそうです。彼のことはなんとなく気になってるのですが、いろいろ面白い仕事をしてるのですね。