かみくず日記

2003年11月22日 ミュージックビデオ

今月の前半は、相方の母親が大阪から上京してきて、クルマで鎌倉を案内したり、親友Sの結婚式でビデオ撮影を頼まれたり、仕事のレポート作成で徹夜したり、その間を縫って相方と箱根へ温泉旅行(ささやかな新婚旅行?)に行ったりと、右往左往、七転八倒の毎日で、なかなか更新ができませんでした。ごめんなさい。なんとか元気にやっております。

で、話は全然変わるのですが。

最近、ちょっと前のヒット曲を聴いて、それが何年前の歌なのか分からない、ってこと、多くないですか?私は、結構あります。TBSのカウントダウンTVで90年代のヒットチャートをみて「え?そんなに最近だったっけ」やら「あ、そんなに古かったっけ」と思うことが、すごくあるのですよ。で、考えたのですが、これってビデオクリップの影響が大きいのではないかと。

幼い頃聴いた歌だと、聴いた瞬間、そのときの情景が頭の中にスッと浮かんできます。でも、ビデオのある歌では、聴いた瞬間、自分の記憶ではなくて、まずビデオの映像が浮かんでしまいます。ビデオの映像が邪魔をするから、記憶と歌とが結びつかない。これって、当たっているなら、画期的な発見だと思うのですが、どうでしょう。

2003年10月29日 横浜のメリーさん

「横浜のメリーさん」って知ってますか?90年代半ばぐらいまで横浜は関内近辺に出没していた、真っ白い顔のおばあさん。かつて横浜市民の間では結構知られた存在でした。いろんなひとが文章に書いているので、横浜以外でも、知っているひとは多いことでしょう。

私が初めて見かけたのは、おそらく学生の頃。どんなシチュエーションだったか全然覚えていないのですが、その独特の化粧と服装に、猛烈にギョッとしたことだけはよく覚えています。その後90年に就職し、最初の職場が関内にあったため、その頃は何度も遭遇しました。場所は主に伊勢崎モール。入り口近くのハンバーガーショップ(当時は森永ラブ)が行きつけだったようで、片隅で水を飲んでる姿を目撃したこともあります。しかしその後、異動で関内を離れてからは、見かけることもなくなりました。

メリーさんはその後、故郷に帰り、老人ホームに入ったのだそうです。2年ほど前、たまたま立ち読みしたミニコミ誌のエッセーには、そう書いてありました。メリーさんの「その後」を綴ったそのエッセーは、短いけれどとても感動的で、ちょうどその頃しごとに行き詰まっていたこともあって、本屋の店先だというのに、思わず涙が出そうになりました。

なんでこんなことを書いているかというと、つい最近、ネットで調べごとをしていて、偶然、このエッセーを見つけたのです。山崎洋子「天井桟敷の横浜-メリーさんの手紙-」。暇だったら読んでみてください。(※リンク切れ 2016-09-11) で、そこからリンクをたどったら、メリーさんの生い立ちについてさらに詳しく調べた方もいました。「都市伝説・メリーさんの真実」。トップの写真だけみるとキワものサイトと勘違いしそうですが、こちらもテキストがすごく良いです。人生とか孤独とかいうものの奥の深さを感じます。

2003年10月26日 白船

のんびりとした一日。

ムキンポさんやロフトの平野さんも参加予定だった白船平和義士団が、北朝鮮の入国許可が下りず、やむなく中止とのこと。期待していただけに残念です。

行ってどうするんだとか、向こうに利用されるだけ、とかいろいろ言う人はいるけれど、やっぱり誰かが行って、向こうの様子を見てくるべきだと思うのですよ。東ドイツがそうだったように、人が自由に行き来するところから、いろんな流れが起きてくると思うのです。

2003年10月23日 職場のスペース

今日は部長の突然の命令により、定時後、職場の席替えがあった。長期出張している人、顧客先常駐の人の席をなくし、使用スペースを減らして部の経費を節減するんだそうだ。顧客先に一日4時間「半常駐」している私の席は、やっぱり半分になるのだろうか?

トム・デマルコ、ティモシー・リスターの名著「ピープルウェア」(日経BP社)には、職場のスペースを狭くして経費を節約することがソフトウェア会社にとっていかに大きな間違いであるかということが書かれています。

あるいは、オフィス環境に投資する金を1セント節約するのも、製品の売上で1セント儲けるのも、原理的には同じことである、といったことを考える輩は、コスト/利益理論を知ってはいても、利益の本質には全くうとい管理者だ。確かにコストについては、数式を混じえてかなりの知識を持っているだろうが、数式だけでは解けない問題には何の注意も払わない。オフィスへの設備投資を減らしてコストを抑える、というのは捨てがたい考えだが、しかし「捨てがたい」というのは、一体何と比べてのことなのだろうか?答えは明快で、オフィスの投資節約効果は、生産性低下の危険性と比較する必要がある。

(第9章 オフィス投資を節約すると)

2003年10月10日 ディストピア

昼、若い営業と二人でお客さんのところに出張。受注活動です。行きの道すがら、うちの会社の、うまく行っていない体制の話でめちゃもりあがる。

夜、映画の試写会が当たって東京に出てきた相方と、渋谷で待ち合わせ。スペイン料理を食べにいく。そこそこ安くて美味かった

それから、4月の住基ネットのイベントで司会をした吉村英二さんから、以下のような案内が来ました。あいにく私はいけるかどうかわからないのですが、興味のある方は行ってみてください。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
『ディストピア!JAPAN 住基ネットがまねく監視社会』
上映&即売会 開催 !!

■とき
10月17日(金) 19時から
■ところ
ライブ&トークスペース「トリック・スター」
(JR高田馬場駅戸山口3分 新宿区高田馬場4-2-36宏洋ビルB1)
■地図
http://www.mapion.co.jp/c/here?S=all&F=mapi0910248031003163858
■出演
吉村英二(『ディストピア!JAPAN』監督)
■お金
1000円(ドリンク別)
■問い合わせ
反住基ネット連絡会 
http://www1.jca.apc.org/juki85/
トリック・スター社 
http://www.dop.co.jp/

『ディストピア!JAPAN 住基ネットがまねく監視社会』とは?
http://www1.jca.apc.org/juki85/JukiNetVideo/Distopia.html

2003年10月9日 ドアスコープ

夜10時半ごろ家に帰り、着替えていたら、玄関の呼鈴が。慌てて玄関口まで行ってドアスコープで外を覗くが、誰もいない。「どなたですか~?」と呼びかけても反応なし。しばらく経って、外へ出てみるが、やはり誰もいない。

晩飯を食い終わり、居間でまったり。相方が風呂に入ったところで、また呼鈴が。返事をしてみるが、反応なし。ドアスコープを覗くと、やはり誰もいない。なのに、再び呼鈴が!

呼鈴が壊れたのか、鳥がつついているのか、それともドアスコープの死角に誰かいるのか。ドアチェーンをつけたまま、すこしドアを開けるが、人の気配はない。ただ、ドアの向こう左下はまだ死角のままなので、そこに誰か隠れているかもしれない。でも死角になる個所なんて本当に小さいし、そんなところに人が隠れられるはずはないよなぁ、と思いつつも、万が一を考え外に出ずしばらく待つ。

30分ほど経ち、ドアに郵便受け口があることを思い出す。そこから覗けば死角も見えるかも。で、ポストに手をいれてごそごそやるが、作りが入り組んでいてやっぱりダメ。で、諦めてふとドアスコープを覗くと、そこには歩いて立ち去る男の後姿が。。。

いやあ、びっくりしました。おそらく泥棒だったのでしょう。しかも、不在ではなく、在宅していることを呼鈴で確かめて、外で出てくるのを待ち構えていたわけだから、留守を狙った空き巣ではないわけで。2回目に鳴ったとき、もし確かめに外に出ていたら。。。そう思うとゾッとします。いちおう警察にも連絡し、その後は相方と改めて防犯についてあれこれ話し合いました。

物騒な話ですが、それでも何ともなかったのは、絶対に誰もいないと思いながらも、「不審なときは絶対にドアを開けない」という基本を愚直に守った結果なわけで、基本は大切だなぁと。皆さん、特に私の家の近隣の方は、特に注意しましょう。

2003年9月28日 赤鬼

いま新聞をとっていないので、観たいテレビを逃すことが多い。ですが幸いネットで教えてくれた人がいて、野田秀樹の舞台「赤鬼」を観ることができた。これ、以前たしかタイの役者との共同作業がニュースで紹介されていて、すごく観たいと思っていたのですが、機会を逃してたのですよ。今回のバージョンはイギリス公演のもので、役者も向こうの人、台詞も英語。テレビなので字幕が出るものの、読むのがちとしんどくて最初は他のチャンネルところころ変えながらいいかげんに観ていたのですが、最後は完全に引き込まれた。シンプルな舞台なのに、ラストの情景は叙情的で美しく、悲しいということではなしに、目頭が熱くなった。昔、野田の芝居を一生懸命観ていた頃の気持ちが頭の中でフラッシュバックした感じ。

2003年9月23日 ピンポン

映画「ピンポン」をテレビで観る。以前「虎の穴」で井筒監督が酷評していたので、どんなもんだろうと思って観たんですが、そこそこ面白かった。ただ、卓球に賭ける登場人物たちのメンタルの部分の描写がいまひとつ入り込めなかった。映画では才能と努力というのがすごく分けて描かれているけれど、両者は実際は混沌としてると思うのですよ。それは、学生時代スポーツとか芸術系の部活に打ち込んだ人なら体験的に知っていることだと思うわけで。ちなみに私は吹奏楽部でした。卓球の場面は体はビジュアル的に面白かったので、宮本輝の小説「青が散る」みたいに、試合中の心理描写をもっと激しくすればよかったのではないかな。普通はこういうのは小説に比べて映像では難しいけれど、特殊効果はそういう常識を覆す武器になるかもしれない。

で、卓球といえば最近話題のこの映像。流行の尻馬に乗るのは癪ですが、やっぱり面白いので載せちゃいます。

※リンク張り替えました。(2016-09-11)

2003年9月21日 早春スケッチブック

19日、俳優の河原崎長一郎さんが死去。10代、20代の人は誰?って思う多いかもしれませんが、この人です。でも、リンクはいつまであるだろう。。

「早春スケッチブック」(1983年・フジテレビ)というドラマをご存知でしょうか?このドラマ、視聴率的には惨敗したらしいので、見た人はすごく少ないと思います。でも当時、私の通っていた高校では、視聴率はほぼ100%でした。なぜかというと、私の住んでいた町周辺がドラマの舞台で、近所でロケが行われたので。で、このドラマに出ていたのが河原崎さんでした。あれから20年経ち、自分がサラリーマンになった今、彼のあの役のことをよく思い出します。

信用金庫に勤める堅実なサラリーマン・望月省一(河原崎)と娘の良子(二階堂千寿)、妻・都(岩下志麻)と息子の和彦(鶴見辰吾)という、連れ子同士の、でも平凡な生活を営んでいる家族が主人公。ある日、息子の和彦の前に、実の父親・沢田竜彦(山崎努)が現れたことから、平穏だった生活が揺さぶられていく、というもの。沢田は自由奔放な写真家で、和彦たちの小市民的な生活を嫌悪し、「お前らみんな、骨の髄までありきたりだ!」と罵声を浴びせつづける。でも彼は実は、病気のため死期が迫っていた。。。シリアスで、あれこれ自分に当てはめて考えさせられる、すごく奥の深いドラマでした。

「いつかは、自分自身をもはや軽蔑することのできないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう」。ニーチェのこの言葉が、ドラマのもとになっていたのだそうです。後でそのことを知って、やっぱりそういう太い根っこを持ったドラマだったんだと納得させられました。私のほかにも、このドラマが心に残った人は多かったようで、視聴率は低かった反面、見たひとの高感度はすごく高かったようです。山田氏のもとにも、何年も経ってから、ドラマのことで視聴者から手紙が来たりする。そんなことはそれまでなかったことなのだそうです(そのあたりの話は新潮文庫版のシナリオ(絶版)の後書きに詳しく書かれています)。

本当は沢田のような、人とは違った自由な生き方をしたい。しかし実際は、省一のようにしか生きられない。でも、平凡に生きるということが、実は一番難しく尊いことだったりする。だが、だからといって、平凡な生活で何が悪い、と開き直ってしまうのも、何か違う。。。とまあ、ドラマで語られていたことを、いまになってあれこれ考えたりするのです。

あと、余談ですが、同じ年、ドラマの放映後に、山田太一の親友である寺山修司が亡くなっています。沢田のモデルが寺山であることを、山田自身は強く否定しています(そういう短絡的な考え方は創作というものをまったく分かっていない人の発想だと思う)が、やはり寺山とのことはドラマに何らかの影響を与えていると思います。二人の最後の交流は、山田太一が寺山修司に宛てた弔辞の中で詳しく描かれていて、私はこのエピソードにも、とても感動したのでした。

2003年9月15日 稲村ガ崎

相方と江ノ島・稲村ガ崎までドライブ。ああ、なんという定番。まるで学生のようだ。でもまあ、ペーパー歴10年を返上しての初の長距離ドライブなので、そこは許してください。

江ノ島周辺は、もう9月も半ばだというのに、なんと泳いでいる人が多数いました。で、私らも靴脱いで海に浸かったのですが。。。なんとその際、愛機のデジカメ(フジフィルムF401)を海に落としてしまい、みごとお釈迦に。経済的にも大打撃ですが、いままで幾多の修羅場?を共にかいくぐってきた思い出があるだけに、心理的にもめちゃめちゃ落ち込みました。

帰りは七里が浜にある「珊瑚礁」でカレー。ここの店、以前の職場の近くのデパートの食品街に支店(スタンド)があって、そこで食ったらめちゃめちゃ美味かったので、何気なくいったのですが、どうもかなりの人気店だったようで、えらい混んでてまいました。で、値段は支店に比べてかなり高かったのですが、味も店からの眺めも申し分なし。

帰りの途中で阪神が優勝。家に帰ってチャンネルを回すも、10時の「ニュースステーション」まで、どこもやっておらず。テレビの平均視聴率が下がってるって騒いでおきながら、こんなチャンスを逃していいのか?

人で埋め尽くされて解放区となった道頓堀の風景が羨ましく、また懐かしかった。思えば結婚するまでの7年間、乏しい給料をやりくりしながら、毎月のように大阪に通った。戎橋はもう数え切れないくらい渡った。いま、自分にとって大阪は、毎月通う街、から、相方の実家のある街、に変わってしまった。なんだか、あの7年間がすごく懐かしい。