会社でちとブチ切れそうなことがあったが我慢。幾つになっても,生きていくって難しいですな。
去年出てすぐ買って途中で放ってあった,高村薫『晴子情歌』。また読み始める。彼女の作品を読むのは忍耐とパワーがいるので,去年はちょっときつかった。今は,とっかかるぐらいの力ならある。一旦入り込むと,言葉がするっと流れていく。
いつも粗野で無骨な中年男,美しい青年ばかりを描く彼女が,女性をきっちり描いたのは今回が初めてではないかな(ファンの人,教えて)。性のヒネリが入っていない分,作者の世界観がこれまで以上にストレートに出ている気がする。(原文は旧漢字)
…当面の苦労はあっても,そこそこ食べていける限り,自分の生きる道に迷ひのない人生というのがかくも穏やかで明朗なものかと,私はいつも眼を見張るやうな心地でした。歓喜にも失望にも疲労にも意気込みにもはつきりとした輪郭があり,それらを区切るのは健康な眠りで,朝は常に新しい。単純な生き方ほど生命にとつて望ましく,精神にとつて健やかなのだと強く感じた私は,自分も出来ればそんな風に生きたいと思ひ,日記にさう云ふ意味のことを書いたのを覚えてゐます。『アンナ・カレーニナ』の登場人物,大地主のレーヰンが自分の農場で労働の喜びを発見したのが,農民への理解と云ふ善意と一つであったのとは違ふ,理解でも善意でもない生きることそのものの単純さを,私は欲しい,と。
…しかし一体,かうして英語教師の野口康夫は死に,一人の漁夫が生まれたのでせうか。私はそのとき何の返事も返せず,昏い海を見続けるばかりでしたが,思ふに,さうして康夫が何を発見しようと,漁夫や農夫たちの単純で強靱な生はたぶん,私や康夫の手中にはない何ものかであるのでした。折々に別の生のありやうを幾分か感じ取ることは出来ても,人にはそれぞれ自分とは重ね合はすことは出来ない断層が予め備はつてゐいるに違ひないのです。先日,私は生きることの単純さを欲しいと日記に書きましたが,足を砂だらけにして浜を駆けていく男女を愛らしいと思ふこころは,さう云ふ人生が手中にない者に与へられてゐるに違ひないのです。