2010年1月5日 どこかで誰かが居なくなるということ

4日に休みを取ったので、一日出遅れて今日が私の仕事始め。しかし、朝イチの新着メールが既に40件。その整理をする間に電話やら割り込み作業やらで作業は溜まる一方。全然調子がでない。

昨年末に亡くなったフジファブリック志村君のこと。日記にも書いたけれど、たくさんのファンがいるというのに、あの公式発表だけというはあまりにひどいのではないか。ファンの側も、そんなに簡単に受け入れてしまっていいのか。ミュージシャンとファンの関係ってその程度のものなの?今の若い人にとって、本当の知り合いでなければ、人の死なんてその程度のものなの。など、正月はそんな落ち着かないひっかかりを感じながら過ごした。私は彼らのファンではあるけれど、世代的には随分離れているので、死の受け止め方も、若いファンと違って、距離を置いたものがある。親しい友人が亡くなった喪失感というよりは、成長を楽しみにしていた後輩を失った気持ち。悲しいが、それを身近な者の死として捉えられないもどかしさ。でも、そのもどかしさの中にこそ、どこかで誰かが死ぬということの本質なのではないかと思うのだ。

ネットでは、若い人達の多くが、こうした「悲しみ」や「もどかしさ」といった感情を「悪いこと」として忌避しているように思えた。本当のところはどうなんだろう。そう思い、mixiのあるコミュニティに、率直な気持ちを(ややオブラートに包んで)書いてみた:

死因なんてどうでもいいのだ。

只々、どんな最期だったのか知りたいと思う。

それは野次馬根性でも興味本位でもなく、本当によく聴いた歌を作り歌った人が、どんな人で、どんなふうにこの世から去っていったのかを知りたいという気持ちで。親しかった友達が、恋人が、否、親しくなくたって、嫌いだった人でさえ、ちょっとでも関わったこと人が突然姿を消して、見知らぬ誰かから「あの人は亡くなりました」とだけ言われて、それを「ああ、そうですか」と受け入れることは、私には、どうしてもできない。

やっと平穏な心を取り戻した方には、心を乱すような書き込みでごめんなさい。

自分自身は訃報を聞いた日も、普通に食事をしたり、テレビを見たり。

ただ、通勤途中、一曲ずつ聴きなおしながら、車窓を眺めて、何度も何度も考え込んでしまった。

あの公式コメントは、最も近くにいた人たちが、ものすごく考え抜いた結果だと思う。だから今は受け入れるけれど、受けとめきれないそういう気持ちがあることを、ここに残しておきたくて、あえて書きました。

いつか時期がきたら、いつでもいいのでファンに話してほしいと思う。

それまで気長に、でも忘れずに待っていることにします。

反発も予想したが、それはなく、共感したという主旨のコメントを幾つか頂いた。共感してもらえる人が少なからずいたことが嬉しかった。