相方が一週間の予定で大阪の実家に帰ることになり、その準備であれこれ。夕方、車で新横浜まで見送りに。かつて何年ものあいだ毎月の習慣だった「駅でのお別れ」を久々に体験。とても懐かしい気がした。
そのまま東京へ出ようと思ったが、さっそく道に迷い、菊名あたりをぐるぐる旋回。やっとの思いで横浜駅周辺までたどり着いたところで、今日、地元で友達が集まって焼肉食ってるのを思い出す。時刻は九時、もう遅いかなと思いながらも、電話してたところ、まだ始まったばかりだと。すっ飛ばして合流し、たらふく食う。そのまま友人宅へ流れて、夜二時までだらだら。
帰って、ネットの掲示板みてたら、イラクの人質事件に関して、あれは自作自演だ、そう仮定すれば全部説明がつく、などとという投稿が。ついつい反論を書く。
贋作の贋作としての価値は本物にいかに近いかということであって、芸術的な価値が高いということは、贋作には何の意味もない。それと同じように、どんなに説得力のある推理も、それは推理にすぎないのであって、それはどんな不条理な事実よりも、存在の次元が低いのだ(説得力があったとは思っていないが)。「そう仮定すれば説明がつく」という理屈が通用するのは、ペーパーテストの選択問題ぐらいのものではないか?。実生活はもっと複雑で、そこで相手を説得しようと思ったら「そう仮定しなければ説明がつかない」ぐらいのことは言えないとだめではなかろうか。もちろん一般的には、無責任にいろんなことを言い合うことで、新たな発見がある場合もあるけれど、現実のヒトの命がかかったこの問題で、そんな「言葉遊び」をする気には、私はなれない。
因果関係(こうしたらああなった)で説明できることなんてたかが知れているし、歴史上の事件のほとんどは、偶然の出来事や当事者の気まぐれに左右されていると、私は考えています。でも、偶然=説明できないものを切り捨てて、理屈だけで世界が説明できる、という考え方が、ネットの世界でかなり蔓延しているように思う。そして、そうした見方に私がついついひとこと言いたくなってしまうのは、言い方が少々きついですが、そこに「頭の良い者だけが世界を規定できる」という、歪んだ選民意識を感じてるからなのです。