2007年8月11日 ライブ

夏休み初日。思い立って、ひさしぶりに「ヴォイスカマンベール」のライブに行ってきました。おそらく4年ぶり。

恵比寿の会場に少し遅れてたどり着くと、会場前の路地の向こうに東京湾花火大会の花火が見えました。高い建物の多い都内にあって、その路地はちょうど打ち上げ場所に向かって一直線に伸びていて、その向こうが下り坂なので、奇跡的に花火が見える。そんな場所があると知り、ちょっと得した気分になりました。

ライブの方は、レパートリーの幅がぐっと広がっており、二人のステージパフォーマンスも堂々としていて、その裏にある4年の月日の流れを改めて実感しました。この4年間、では自分はどう過ごしてきたのか?などということも考えてしまった。こういう風に、長い時間をかけてひとり(二人)の音楽と付き合っていくというのも、音楽との接し方のひとつのカタチなのかもしれない。

忘れられていると恥ずかしいので、挨拶もせずCDだけ買って退散。帰ってブログに感想を書いたら、やっぱり覚えていてくれたようで、嬉しくなりました。

2007年8月9日 Naked Loft

Wattan プロデュース「戦場で培った謀反を企てよう! 戦場からPEACEを伝えよう!」を観にNaked Loftへ。会社を出るのが遅かったので行こうか行くまいか迷ったんですが、行って非常に良かった。会場はガラガラだったのですが、そのせいで全員にマイクが廻ってきて、非常に内容が濃いイベントでした。もっと客が入っていいと思う。

2007年7月29日 長靴

今ごろ、苗場の天気は晴れでしょうか。3日間天気だったのは、もしかして初めてでは?気合入れて長靴用意した女性の皆さんは、履くチャンスが無くてむしろ残念だったするかもしれません。

かく言う私は、今年はぜひ参加すべく、何ヶ月も前からチケットを買って待っておったわけですが、数日前から原因不明の腹痛と身体のダルさ、猛烈な睡魔に襲われてダウン。会社も二日間休んでしまい、フジロックの方も泣く泣く断念となってしまいました。猛烈に無念であります。

2007年6月6日 「北朝鮮へのエクソダス」

仕事は仕様書の作成が佳境に。しかし、構成が今ひとつまとまらない。誰かうまい方法を考えてくれんものか。

テッサ・モーリス・スズキ「北朝鮮へのエクソダス」を読む。必読。北朝鮮への帰国事業の源流が、実は日本政府の積極的な関与にあったこと、さらに、帰国事業の盛り上がりの裏には日本を初めとする各国の思惑と駆け引きがあったことを、2004年に公開された国際赤十字委員会の機密資料から明らかにしている。最近公開された資料に基づく新事実ではあるのだが、内容はむしろ推測どおりの展開。戦前の玉虫色の植民地政策のツケとして、戦後日本の独立による国籍剥奪で突如発生した数万単位の異国人。日本の伝統的な排他性を考えれば、当時の日本政府が彼らの出国を積極的に望んでいたと考えるほうが(その良し悪しは別として)利にかなっている。

政治的な話は非常に興味深かったが、それ以上に、帰国者たちの「祖国」で直面した落胆と絶望、脱北者が語る北朝鮮への複雑な思いには心を打たれた。いま氾濫している北朝鮮批判は、そういう人間的な悲しみへの共感を伴っているのだろうか、と思う。

2007年6月3日 ホタル

秦野までホタルを見に行きました。ホタルというと夏のイメージがあるのですが、神奈川だとピークは6月です。それを知らず、いつも気づいた時にはもうピークを超えていて、去年も地元の公園でちょろっと見たのがやっと。なので、今年は頑張って少し早くから調べてみました。

4時過ぎに横浜を出発。秦野中井ICに着いてもまだ日が高く、とりあえずネットで場所へ。ネットの記事はだいぶ古かったらしく、写真では森の中だったのに、行って見たら宅地の中でした。一応ホタル保護の公園にはなっていたのですが、まだ夕暮れまで時間もあったので場所を変えることに。次の場所は大きな森林公園で、道を散々迷った挙句、たどり着いたときにはもうすっかり夜になってました。公園の中は真っ暗でしたが、地元では有名らしく、たくさん人が訪れていたので、その後に恐る恐るついていくと、真っ暗な闇の中に小さな光がいくつもいくつも。いやぁ、本当に綺麗で、なんとも儚いものでした。

さて、ここ数年はそうやってこの時期ネットでホタル調べているわけですが、去年一昨年までは、検索で引っかかるのは、その土地で地味に環境保護に取り組んでいる方々のサイトがほとんどでした。ホタルを守る、というよりは、ホタルが生息できる環境を守る、というスタンス。それが、ことし同じように検索して引っかかるのは、旅行やレジャーのサイトばかり。もちろん、自分たちの土地の自然の豊かさとしてホタルを取り上げている土地は昔からあるわけですが、どう考えてもホタルなんていない都会の真中で、ホタルを見ながら酒を飲む、なんていうの企画にはどうも引っかかりを感じます。(去年見つけた、地方にあるホタルの里を、ネットで今年探そうとしてたら、そういうサイトに邪魔されて、どうしても見つけられなかった)。あるサイトでも、他所で育てたホタルの幼虫を放しただけで、その土地に根付かせる工夫をしないのでは、自然保護とはいえない、と書いている方がいました。本当にそう思います。

2007年6月2日 眠くて眠くて

今日、横浜は開港記念日で花火やら何やらイベントが盛りだくさんで、天気も良いし、出かければ楽しかったんでしょうが、とにかく眠くて眠くて、気分もいまいちで、終日家に居ました。肩もやたら凝るし、どよーんとした気分で、久しぶりに日記でも書けば気分も晴れるか?と書いてみましたが、どうでしょう。

憂鬱の原因は、平日の寝不足と、週明け職場の新人配属。新人が来るのは嬉しいんですが、職場でOJT教育しろと言われても、私のいる部署は全員が客先に常駐で、どうしたものやら。

2007年1月8日 あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

気が付けば、日記を書くのは1年ぶり、2005年の11月以来です。その年は身近なところで非常に大きなトラブルがあり、一生経験しないだろうという体験をしたのですが、公に出来ない話ばかりで、日記に書くことができない。それに悶々としているうちに、いわゆる「ブログブーム」がやってきて、睡眠時間を削ってまで日記をつける意味というのが、なんだか良く分からなくなったのですよ。

ウェブの日記は公開するネタのない人がとりあえずやるモノ、というのがかつての世間一般の評価でした。だから、自分もそれに後ろめたさを感じながら書いていました。それが、ブログという言葉が広まった(広められた)だけで、実態はほとんど変わっていないのに、それが何か意味のあるモノのようになってしまった。そこにどうも居心地の悪さを感じるのです。確かに、専門的な知識のない人でも情報を発信できるようになったのは素晴らしいことだけれど、そのに何を書くのか?という問いは以前として変わらないと思うのですよ。業者の用意した型にはまったブログサイトが増えた一方で、創意工夫を凝らした個性的なサイトが減ってしまったのも気になります。端に追いやられているのもすごく気になるのです。

2005年11月5日 下北沢

何年ぶりかで下北沢に行く。本当は、月曜日に休みを取って明日から温泉に行く計画だったのだが、昨日突然別の仕事に駆り出され、あえなく没に。その代わりということで都内へドライブに行くことになり、なんとなく行ってみた。

初めて下北沢を訪れたのは今から20年以上前。学生だった私は芝居に興味を持ち始め、「ぴあ」を片手に本多劇場によく通った。仕事を初めてからはすっかり足が遠のいていたので、どうなっているか不安だったけれど、久しぶりに訪れた下北沢は、当時の雰囲気を残しつつ、すっかり賑やかな街になってました。大切な思い出のある街が、そうやって変わらずしかも賑わっているのは、とても嬉しい。迷路のような路地を、当時のように迷いながらぶらぶら歩く。レンタルショーケースの店と昔ながらの八百屋が軒を連ね、ぼろアパートの1階にカフェがあったりと。生活感と非日常が自然に入り混じっているのが面白い。こういう街に住んだら毎日楽しいだろうなと思う。

懐かしくなり、家に帰って当時よく観た劇団や役者をネットで検索してみる。テレビのチョイ役で意外に活躍している人、苦労しながらも細々と続けている人、紆余曲折合った人など様々。この20年、では自分はどうだったんだろうか。

2005年9月11日 9.11

お久しぶりです。2ヶ月もサボってしまいました。仕事が忙しいのは相変わらずなのですが、それに加えて、プライベートで問題が発生してしまい、7月と8月は首が回らない状況だったので。

今日は朝実家から戻り、選挙に行き、明治公園のBE-INに行き、デモで歩きました。こういうところに足を運ぶのは本当に久しぶりで、前いつだったか覚えていないくらい。今日は降らないと思ったので雨具も持たずに行ったら、出発時間の1時間前の2時頃から猛烈な土砂降り。最初は木の下で暢気に雨宿りしてたのですが、とても耐えられなくなり、少し離れた日本青年館まで走る。全身ずぶ濡れ。それでも3時に雨は止んで薄日も差してきたので、Tシャツ買って着替えて出発したら、また土砂降り。かなり参りました。途中、哀れに思ったのか、一緒に歩いていた見知らぬ方が傘を1本くれました。それでなんとか最後まで歩くことができましたが、終わったときにはもうパンツの中まででびしょびしょ。

d20050911-01会場に戻ったら、ピーターバラカン氏がいました。あと、傘くれた方にお礼したかったんですが、会場で見失ってしまい、できずじまい。この場を借りてお礼いたします。どうもありがとうございました。

家に帰って選挙速報をみたら、自民圧勝。まあ小選挙区制なので初めから判っていたことではあるが。イエスかノーかを死票の多い小選挙区制で問うのは、どうだろうか。たぶんあと何ヶ月もたてば、自民党はこれが郵政「だけ」を争点にした結果だったなんてことを反故にしてくるのではないだろうか。

2005年6月20日 新聞を疑え?

会社の昼休み、Yahoo!のニュースでこの記事を見かけて、なんでまた今ごろ?と思った。

吉田満著書 乗組員救助の記述 戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き – 救助艇指揮官「事実無根」
戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の中で、救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)ったと書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、「事実無根だ」と証言した。手首斬りの記述は朝日新聞一面コラム「天声人語」でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として“独り歩き”しているが、指揮官は「海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい」と訴えている。(中略)
この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、救助艇が満杯となり、なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため、指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述していた。
これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めたMさん(80)(原文は本名)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。  その理由として(1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない(2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない(3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった-と指摘した。
松井さんは昭和四十二年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、「あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの」と削除を要請した。吉田氏からは「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった。
Mさんはこれまで、「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」とし、旧軍関係者以外に当時の様子を語ったり、吉田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった。
しかし、朝日新聞が四月七日付の天声人語で、同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたため、「戦後六十年を機に事実関係をはっきりさせたい」として産経新聞の取材を受けた。  戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない。沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている。
Mさんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。(産経新聞 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050620-00000000-san-soci ※リンク切れ)

「戦艦大和ノ最期」といえばもう古典だし、軍国主義的という批判さえ浴びたことがあるぐらいで、フジ・サンケイが噛み付くような作品ではあるまいと。記事の内容も、その通りだとするなら、そもそも初霜は大和の救出をしていないのだから、現場を見てはいないわけで、(2)、(3)の指摘も、実体験者の証言を覆すほどの内容には思えない。また、昔写真で見た大和沈没時のすさまじさを考えると、(3)の漂流者が我先に助けを求めるのも当然のことのように思える。だいたい、沈没の翌年に書かれ、出典も明確で、どこの戦場でもあるエピソードがなぜ「残虐さ独り歩き」なのか。後半、とってつけたように沖縄の話になるのかも良く分らない。 集団自決という事実と「生きて虜囚の辱めを受けず」という当時の戦陣訓を考えれば、十分に信憑性のある話だし、「~の説が有力になっている」って書いてあるけれど、異なる意見の対立がある、というのが正しいのでは。大体、古代史じゃないのだから。沖縄の戦争体験者の発言など眼中にないのか。

あと細かい話だけれど「旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ」は文意から明らかに「離島で行われた集団自決が旧日本軍の命令によるものと長く信じられ」だと思うのだが。この悪文は意図的なものか?

たぶんMさんは、救助艇は初霜のものでない、しかしそれを指摘すれば他に責任を負わすことになる、ということで長年黙っておられたのではないだろうか。けれど私は、たとえ書かれたようなことがあったとしても、それは極限状態のなかでの出来事であって、責められるようなことではないと思う

。。。証言は興味深いけれど、後半はなんだか意味不明だなぁ、産経新聞ってそんなもんなのかなぁと思いつつ、寝る前、もう一度読もうと検索かけたら、 別の記事で謎はあっさり解けました。

「集団自決」書き換え懸念 – 揺らぐ教科書の沖縄戦記述/8団体がシンポ
県内八つの平和団体が主催する緊急集会「『軍隊の支配する世界』~沖縄戦の『真実』にせまる~」が十九日、約百二十人を集めて那覇市で開かれた。旧日本軍による「集団自決強要」を否定し、教科書からの削除を主張する自由主義史観研究会の活動を憂慮して企画された。軍の統制下で発生した「集団自決」の背景に焦点をあてながら、沖縄戦の教訓を伝えていく教育の重要性などについて、熱心な発言が相次いだ。
安仁屋政昭・沖国大名誉教授は講演で、「部隊長の直接命令がないから、軍命による『集団自決』はない」とする同会の主張に対し、沖縄戦の戦場が、民政の機能しない戒厳令に似た「合囲地境」だったと指摘した。
「役場の幹部が『集団自決』に言及したとしても、住民が『軍命』と受け取るのが事実関係から適当。個々の命令の有無でなく、大局的にみる必要がある」として、軍政下の軍と住民の位置づけを強調した。
琉球大教育学部の山口剛史講師は「沖縄戦で何を学ぶか」と題した報告で、「集団自決強要は虚構」と結論づける同会の模擬授業を例に、教育現場から反論するための視点を示した。(沖縄タイムズ http://www.okinawatimes.co.jp/day/200506201300_01.html ※リンク切れ)

ご存知のように、産経新聞は自由主義史観研究会の活動を支援しており、最初の記事は、日付から言って明らかに上の集会を意識したものです。

「新聞を疑え」っていう新聞が一番信用できないってことか。